4月。
新しい学校やクラスや、職場やなんかに行くようになる、この季節。 この後にくる、いわゆる「五月病」は、実は年々早くなっていて、 もうすでに、始まっているのだとか。。。 かくいう自分も、就職する年、二十歳の頃は、 フツーのOLなんてのは、まっぴら御免だったし、 いい男みつけて、永久就職などということも考えたことがなかった。 その頃は、ギター弾いたり、歌作ったり、演劇をやりたかったりと、 やたら舞台モノに惹かれていた。 といっても、主役でスポットライトを浴びて・・・とかにはあまり興味が無く、 自分が表現したいものを表現できればいい・・・という、超ワガママな欲望。 で、結局のところ、自分が選んだのは、貿易事務の仕事だった。 その頃の新卒の月給が平均十万切るくらいだったから、それからすれば破格の13万というところだけで決めた、外資系の小さな会社だった。 まるっきり、芸とはかんけーねーところを選んだのは、卒業したのが英語学校だったからだ。外資なのは、外国のやり方ってのを知りたかったから。 英語学校の授業で使っていた系列の施設は、韓国か朝鮮系の団体で、 在日の人達が普通に働いていた。近年、何かと騒がしくなったので、ふと思い出したのだが、その頃はそんなこと気にしてなかったな・・・と思う。 もしかすると、それなりな気遣いをその施設で働く人達は、していたのかもしれない・・・と思うと、楽しくすごせた二年間の学校とアルバイトの日々がありがたい気もする。そんなわけで、学校の時もアジア人を始め、欧米やらなんやらの外国の人々ともしょっちゅう顔を合わせていて(何しろ、教わっていた先生の半数以上が外国の人だったし)、いろいろな違いを聞いていたのだ。 日本にくらべてクールだな・・・と思った。付き合いの飲み会なんてないっていうし。その頃の私は、日本式の飲み会、宴会がだいっきらいだった。酔っぱらいも、説教おやじも、いちいち小うるさい、「女の子」もめんどうだった。 学校のクラスメート等は、いきなり小劇団に入って、周囲をアッと言わせたパンクロックの子や、同時通訳の名士になったり、ピースボートだかで、各国を回り、滞在先の同僚だった人と、何年か後に結婚したり、外交官の妻に収まった者、もちろん、2年程社会経験を積んで、寿結婚で引退・・・という者まで、かなり多種多様な人生を歩んでいる。 いつだったか、クラス会の席で、私は早くに身持ちのいい人と結婚して、子供を二人ぐらい連れて歩いていそうだったのにと話してくれた人がいた。 ・・・へえ、そんな風にみてくれてた人がいるんだ・・・びっくりである。 で、就職はしたものの、もともと事務職が嫌いだったこともあり、一年未満で会社を辞めた。本当は、入って三ヶ月で「もういい」と思ったのだが、それはあまりにも軽率だと思い、せめて一年くらいはできることをやろうと思った。実際、右も左もわからない貿易事務を、ベテランの銀行の担当のおばさんに、叱られながら、(でも、ちゃんと教えてくれるんだよね、これが)相手先の台湾や韓国の担当者に迷惑をかけながら、どうにか輸出入の流れを廻せるようになった。 そこを止める時にはじめて、社長を始め、上司や先輩方が、影ながらいろいろ心配していたことを話してくれて、その後二週間ほど、イベントの手伝いのアルバイトを引き続きやらせてもらった。 大人の世界は、さまざまなんだな・・・と感じて、宴会も、よっぱらいも、女の子も、ケースバイケースなのだと思うようになった。 その後、じゃあ、舞台の方へ行くのかと思いきや、そうでもない。 でも、この後の半年は、私にとって、小学校の時に見た演劇以来の体験になった。 #
by yui-aoyama
| 2008-04-14 00:04
| 演じる
この十八年、毎年七月二十日前後に、麻布区民センターのホールで、麻布演劇市の参加団体として、クロスロードアクターズクラブ親子劇場と銘打って、子供も大人も、みんな楽しめる演劇を公演してきた。
その、今年の公演が、中止させられる可能性が高い。 このクロスロードの親子劇場の公演は、ほぼ、全回無料で行ってきている。 弱小のアマチュア劇団が、無料で行う・・・などというのは、かなり無謀なコトである。なにしろ毎回の公演の衣裳の予算は、一万円~二万円しかない。 が、なぜ、そうしたか・・・といえば、この「麻布演劇市」というのは、麻布区民センターの主催事業であり、毎年予算を組んで、公演を行っているものだからである。 区民、在住、在勤者からいただいている税金の一部をもらってやるのだから、まずはいただいた方々へ還元したい。ここは、他の参加団体の公演についても無料である。 で、クロスロードの場合、もちろん港区以外のお客さんも見に来ることがあるけれど、それらの多くも子ども達である。できれば、分け隔て無く無料にしたい。 じゃあ、大人は有料? でも、中には地域の子ども達10人くらいを引率して来てくれる大人の方がいる。その方から、もらうのは・・・。等々、いろいろ考えたあげく、全部、無料にしよう!! となった。 ところが・・・である。 劇を観て、心に感じるところがあった方が、無料なんて観客をバカにしていると怒りながら、「いい公演を続けろ」と、激励の心づけを置いていかれた。 他にも、「大変でしょうに、ただでは申し訳ないので・・・」と紙包みを差し出すお母さんが居たりと、様々なお心遣いをいただいた。 一律、500円にしようか・・・という案なども、そういうエピソードの後に出たが、無料だから、一家全員で見に来られるという方もいたり、簡単には決められない。 結局、制作協力金という、クロスロードアクターズクラブを応援するよ!という意思表示の心付けを受け取れる窓口をおくことにした。投げ銭である。もちろん、強制ではないし、入れる必要はない。 どのくらいいただけるかなど、神のみぞ知る・・・という、公演の内容の善し悪しのバロメータでもある。 ・・・ところが、それを「儲けている」ととられたのか、それを発端としてクロスロードアクターズクラブは、「麻布演劇市」からの自主退会を演劇市の実行委員会から勧告されている。 理由は団体の規律や和を乱す行為をするから・・・らしい。 多数決で排除対象になったということ。 もともと、麻布演劇市というのは、港区で活動する、プロ・アマを問わない演劇団体が、港区民や在勤、その友人知人、家族らに、いい演劇を観てもらおうと始まった、ボランティアな文化活動だと聴いている。 それぞれの団体はそれぞれの活動背景もあり、事情もある。演目の趣旨やスタイルも様々である。主義・主張も含め、いろいろ違いがあっても、そこが「市」なのだ・・・という自由なスタンスがあった。 なのに・・・である。 今年に入ってからの麻布演劇市の委員会は、クロスロードアクターズクラブに対し、一方的に謝罪を要求し、緊急に総会を開いて規約を改正し、改正し終わると即時に自主退会勧告決議をして勧告書を書面で送ってきた。 その回答をする機会なはずの次の会議にはクロスロードは呼ばれもせず、会議のレジメにも団体名を載せてもらえず、当日出席したスタッフは、「なんで来たんですか」と他の委員から問われた。 釈明どころか、意思表示すらできないって、そんなのありなのか・・・報告を聞いておどろいた。 権力で押し込めようとするやり方は、路傍で演劇をする下々が一番嫌ったことではなかったか・・・とも思う。 参加団体の中で唯一、無料公演で、親子劇場で・・・というスタイルは、そんなにも異端で、そんなにも偽善的で、そんなにも規律に反し、他の団体の利益を損ねるようなものだろうか???港区民や活動拠点の人々、いつも協力や後援をしてくれている様々な公・民の団体や個人に対して、背信となることはしていないと思う。 なぜ、夏の公演をやめなければならないのだろうか。。。 実行委員会の人々の逆鱗に触れたからだろうか? 二十年も公演を続けてきた実行委員会が、そんな理由で退会勧告をするものだろうか。 はぁ・・・。 いろんな人々と、いろんなことがあって、もめ事だってあるだろうし、それぞれのかかえる問題や、理解し合えない時のつらさもある。 だけど、それらを越えて、良い仕事をしよう、いい作品を作ろうと私は思う。 食べる為の仕事でも、趣味から派生したものでも、家事など日常のことがらもである。 一時の感情の行き違いや、不本意でもかってしまった恨みや、誤解など、言い出したら切りがない。 そんなものに心を縛られて、本来やるべきことを見失いたくはない。 #
by yui-aoyama
| 2008-02-24 00:22
| 徒然
タイトルのBauXarというのは、
日本エム・イー・ティ株式会社の、ブランドネーム。スピーカーのメーカーである。 このBauXar、「音源をそのまま再生」を心がけて設計したものだそうだ。 この考え方は「BauXar」商品すべてに共通するコンセプトで、ミュージシャン、レコーディングエンジニアの創った「音」を再生装置で色付けしない様に心がけていると、開発者の方のお話である。 現在販売されているのは、スピーカー二種類と、イヤーフォン一種類。 実際に手に入れて使ってみたのは、イヤーフォンである。 詳しいことは、サイトで読んでもらった方がいい。 そのサイトに、タイムドメインという言葉が出てくるのだが、その言葉が既知な人はかなりいるのではないかと思う。 数年前から、タイムドメインのスピーカー・・・という話は、音楽好きな人々から耳にすることがあったのだけど、その理論を聞いて、両刃の剣と思っていた。 だってね、音源をそのまま・・・だよ。 ダメなものは、ゆるぎなくダメって、きこえちゃうじゃんか。 イヤーフォンMというので実際に色々聴いてみた。 笑った。嬉しくなる。ホント、面白い。お気に入りの音楽が、とびきり素敵に再生された時は、言葉にならなかったくらい嬉しかった。 で、なんでゆいのネタ帳に書いているかっていえば、 私が期待した意図に、かなり有用であるという印象から。 演劇や朗読は、主に言葉を使い、観客に見聞きしてもらう。 演劇は、動作も大きな要素ではあるが、通常は台詞が一番伝える役目を負う。 朗読は、台詞、地の文、効果音と、音ばかり。 役者として自分の声を使って、他者に何かしらを感じてもらう行為であるのにもかかわらず、 案外と自分の声に無頓着なことが多い。 一流の方々は、よもやそんなことはないだろうが、アマチュアから素人にかけてのあたりにいる私としては、その無頓着さに時々驚く。 自分も、決して自分の声を駆使できる技量があるわけではなく、他人にどうこう言えるのかと言われれば、黙っていようかな~などと思うのだが、でも、きづいちゃったら言わずにいるのも不自然である。自分をなぶるような行為ではあるけど、忘れないように書いておこうと思うのだ。 自分の声を知ることは、別に俳優、声優、アナウンサーなど、声を使う仕事の人だけではなく、誰かに何かを伝えることがある人には、ある程度能動的に必要なことだ。 自分が語る時に、どのような息づかいで、どのような発声をし、どんな声質で、どんなクセがあのかを意識している人は、あまりいないだろう。 実際、そんなことを四六時中考えながらしゃべっていたら、事務的に伝えることまで、伝わらなくなる可能性もある。 けれど、営業のプレゼンの時、ただ棒読みしていたら、もともと興味がない人にとっては、のっけから無意味なご託を聞かされる以外のなにものでもない時間になってしまう。 せっかく聞いてもらうのなら、そこに伝えたいものがあるのなら、それが自分の力の及ぶ限りいい状態で伝えたいと思う。・・・・少なくとも私はそう思う。仕事でも、演劇でも、朗読でも、その他友達と話す時でも。 で、日頃そんなことを考えていて、特に昨年は知り合いのライブに足を運んだ際、元の音源の本質があってこそ機材が活かせるのであり、本質を知ることは発信する側の責務ではないかと改めて気づかされた。 そんなこんなで、年が明け、そのイヤーフォンを清水の舞台から飛び降りて手に入れ、 おそるおそる、聞いてみたのが、つい今週の頭である。 当初は、好きな音楽をより楽しむ為に・・・という考えだったのが、 この数ヶ月で、方向転換をした。 様々な音を聴く為に、もっと広い意味で音を知り、楽しむ為に・・・である。 実は近々、昨年レコーディングしていた朗読のCDが出来上がってくる。 もちろん、イヤーフォンMで聞いてみる。 コワイものみたさ・・・いや、聴きたさ?? マジなところを言えば、有言実行なだけ。 #
by yui-aoyama
| 2008-01-12 15:21
| 音
現在勤めている職場に、福島がふるさとの人がいる。
何かの折に、福島の民話の本とか、方言で語られているお話のCDとか ないかなぁ・・・などという話をしたことがあった。 なんと、その人はふるさとの友人に、その話をしてくれていた。 ある日、その友人の方から私に手紙が来た。 東京電力が、かつて、福島の小学校や図書館、その他公共の施設向けで、 福島の各地の民話を集めた、CD付の絵本を作って配ったことがあるとのことだった。 今でも、もしかすると手に入る・・・ということで、東電にきいてみては?と、書かれていた。 東電かぁ・・・。たかが、アマチュアの演劇関係に手を染めている人の問いあわせなど、 どれだけとりあってくれるだろうか・・・と思わないでもなかった。 でも、その手紙の文面から、なぜだかやってみるべきだという気がしてきていた。 しばし考えた後、何日か過ぎてから、東京電力のサイトから、問い合わせをした。 それから大分たった。二日前に、ふと、そのことを思い出した。 昨日、昼前に自宅に電話が入った。東京電力からだった。 私は仕事に出ていたので、家族が電話を受けた。 問い合わせていたCD付の本を、送ってくれるということだった。 直接、電話口に出られなかったので、よくわからなかったけれども、 担当の方は、ずいぶんと探してくれたようだった。 今日、その本が届いた。48話も収録されている立派な絵本だった。 あまり知られていない、地方の民話が沢山入っていた。 大切にしようと思う。 ちゃんと活用していこうと思う。 なんだか、ありがたかった。 CD絵本を送ってくれた東京電力の広報の方にも、 お礼状を書こうと思う。 ありがとうございます。大切に使います。 #
by yui-aoyama
| 2007-12-19 22:50
| 朗読
もう、半年くらいになるだろうか、太宰治の小説の朗読をレコーディングしていた。
今日、最後まで録り終わったのだが、その後、感想などを話している時に、伝える・・・という作業の面白さに気づいた。 その小説を朗読の台本として読み始めた時、私の周りには、理解できない登場人物の感情に無数の???が踊っていた。 朗読を録りはじめて、その本番最中に、処理しきれない登場人物の台詞になると読めなくなることが多いと気づいた。 頭で考えた登場人物の有り様というのは、実は偽物といっても過言ではない。 登場人物として、読み返していくうちに、ふと、力が抜けているのに気づくことがある。 その時は、すんなりとごく当然のように、言葉が口をついて出てくる。 録音されたそれは、自分が頭でこねくり回した人物の言いようとは違って、語る時のほんのちょっとした澱みまでが、台詞になっている。 そんなことはマレだが、その人物の風体までが、なんだか脳裏に浮かんでくることがある。 そういえば・・・と思う。 ある女性のボーカリストの歌い方は、それを体現しているような感じだった。 好きなバンドのボーカルを聴いていて、違和感を感じる時と、すっかり浸れる時との差にも、単に上手く歌った歌なのか、その歌と歌い手の波長が重なっているかといったことがあるような気がする。 子供の頃から様々な話を聞いたり、読んだりすることを繰り返ししてきたかどうかというのは、実は、とても大切な人間の機能の成長に関わっているのだと気づいた。 心で感じ取ることと、頭で解析することは、まるで別なこと。 どちらも必要なことである。 が、それが違うものであると知っているかいないかで、まるでその後の行動が変わる。 頭で解析した結果を伝えるのは、広く同じコトを伝えるには向いている。 しかし、心の奥底に響く、言葉にならないものを伝えるには、伝える側の心も響いていなければならない。 あたまで構築された観念を伝えても、響きは激減する。 自分の前にいる誰かに、何を伝えるか・・・それを自分自身がわからなければ、すれ違いなどは、あたりまえのように起きる。 #
by yui-aoyama
| 2007-11-30 23:46
| 朗読
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