自然(あるがまま)を探す

自然に・・・なんたって、そうそう日常、自然になど振る舞っていない。
どこかで緊張しているのが相場である。
朗読を毎日やっている中で、
ほんの少しの自分の状況の違いを思い知った。

朗読を始めた頃に、先生が私に言ったのは、
素の青山さんで・・・とか、本当の青山さんの声で・・・ということだった。
(舞台の)演劇をやっていると、たしかに素の声でいることは少ない。
だいたい、多くの舞台俳優たちは、体育会系な発声や肉体訓練をする。

私は、挫折組である。(マジに)

肉体的にも精神的にも、アノ(←このアノがわかる人は、演劇人です・・・ね、きっと)発声訓練や、肉体訓練で、身体を壊した口である。
丈夫にしておけなかったのがいけないのだと言われれば、それまでのことである。

けれど・・・と、その後も独り、脚本書いたり、衣裳を作ったりしながら演劇になんとはなく
関わってきて思うのは、あんな風にやらんでもいいじゃないか・・である。
もともと、演劇というのは、自分以外の誰かや、現実ではない世界の存在として、偽って生きるものである。何かの役をやるたびに、妙なセリフの癖や、身体の癖を身につけることになるのだから、マンマやったらキツイはずである。

たまたま、ひょっとしたはずみで、能楽に関わるようになり、
これまた、ひょっとしたはずみで、本物の謡を目の前で聴けるチャンスに恵まれた時に、
ん?と思った。
無駄な力がかかっていない。ここぞという時の力の使い方は見事だった。
(プロなんだから、こんなこと書くのは、失礼な気もするが)
謡はやっていないが、能管をやってみた。そこで気づいたのも、同様だった。
無駄な力みがあっては、どんなに力をこめても、空回りするのだ。
「力み」と「力」は、同じ字を使っても意味はまるで違う。

そんなこんなをいろいろと考え、自分はいかに楽に声を出すか、演じるか・・・からはじまり、
日常、仕事をするにも、力まず、力を発揮する・・・を命題にかかげている。
最近になって、少しわかりかけてきた時、いつも聞きにいっているライブの出演者が、
「アレクサンダー・テクニーク」というものを体験してきたと聞いた。
既知感があった。たぶん、遠い昔にそれか、それに似た何かをやったことがあるに違いない。
後で調べたら、やはり・・・である。まだ20代前半の頃に、欧米の演劇法を学んでいたことがある。その流れの中で、出合っているのだ。
なつかしいような感じで、今頃になって、おさらいのようなものをした。
そこで確認したことは、演劇にかかわらず、私が生きる上で身につけてきた、今も身につけようとしていることは、結局はつながっているということ。

どの側面から昇ろうと、富士の山は一つである。
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by yui-aoyama | 2006-11-11 20:43 | 人・自然
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