発信と受信

年賀状で、今年の夏の公演用に、こういうのを書いていると数人に言った。
ある日、いとこからケータイメールが届いた
親戚関係から、メールが届くなどということは、めったにないことなので、
何かと思ったら、その台本のことで、思い出した・・・と、外国の童謡の楽譜を持っているのだが、いらないかということだった。
劇で使えるかはともかく、興味が沸いたので、送ってもらうことにした。

何かをほんの一言発するだけで、変わることがある。
演劇・ドラマの世界では、それを誇張してみせたりして、
見る人に「おおっ、ドラマだぁ~」と思わせたりする。
又、ほんの一言を発さなかった故に・・・ということもある。
その結果は、もちろん様々で、いいこともあれば、わるいこともある。

人はどこか寄りかかって生きているものらしい。
だからこそ、自立の心構えは必須なのだが。
お互いに、何かを発したり、受け取ったりしながら、
可変な空間を創りだしている生き物だ。

誰かが発したシグナルは、ちゃんと受けとめる気概をもっていなければ・・・と、脚本なぞ書いていると思うことが多くなる。
なんたって、ヘタすると2時間くらい、じっと劇をみてもらうのである。
こんなありがたいことはない。
席を立たずに見終わったお客様には、頭が下がる。
様々なリアクションを残してお客様が帰った後、そのリアクションを噛みしめて、一喜一憂するのも、脚本書きの仕事である。
だから、自分も「最初に受け取る側」の時は、ちゃんとうけとめようと思う。

それは気を使って、適当に誉めておくとか、とにかく励ますとか、
そんなことではなく、感じたこと、思ったことをちゃんと伝えようとすること。
恨まれることもあるかもしれないけれど、喜んでもらえることもあるから。

客と演じ手というだけではなく、友達、親子、恋人、兄弟、取引相手等、
人と人が会った時には、発信と受信がある。
それをおろそかにしてはいけない。人が人であるために。
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# by yui-aoyama | 2007-02-03 11:53 | 徒然

子供に誇れるか?

子供達と大人達に、年1回とはいえ、十何年も劇をみせる片棒を担いできた。

最近の子供は、大人になりたがらないことが多いらしい。
大人になっても、楽しいコトなんてないとか、
そんな風に、周囲の大人達や、テレビなどを見て思うそうだ。

世間的に大したことのない大人が言うのもナンだけど、
そりゃ、大人が大人になりきれてないからだろうと思う。

最近になって、思い返してみると、子供の頃、大人になりたかった。
なぜならば、子供のうちは、本当の自由は与えられてないからだ。
うちの親は、ごく普通に育ててくれた。
ちゃんと子供の出かけるところを見ていて、余計なことをするのはだいたい阻止された。 悪いことをしていたのも、すぐにバレて、徹底して恥じを知らされた。
あんまりにも、言うことをきかないと顔だってぶたれたし、出て行けと言われて、外に出されたこともある。
親子で一緒に食事をしたことも、旅行したこともあるし、台所仕事も、日曜大工のまねごとも、トランプとか凧あげを教えてもらったりもした。
楽しいこともあったけど、決して野放しに自由だったことはない。
親の管理下にあったし、実際、守られて生きていた。
そこから外れようとすれば、一人前ではないのだからと叱られた。
わがまま言って、好きなようにしたいなら、一人前になって自分で稼げるようになってからやりなさいと言われた。 子供心に、それじゃ遅いんだとも思ったりしたが、そのおかげで大人になりたいという意識は高かった。

ただし・・・、見ていて、つまらないな~と思う大人になりたかったワケではない。
私にとって、大人とは自分で選ぶことができ、自分の手でなにかをやる人であり、つまらない世界で、黙々と生活する人ではなかった。

今、子供達に胸をはって、大人っていいんだぞ~!とマジで言える。
だってさ、子供なんかより、遙かに自由だし。
やりたいことだって、子供の時よりずっとやれてるし。
やりたくないことだって、必要とあればこなせるし、
誰かにやってあげられることだって、子供の頃からすれば格段に増えた。
大人になるのって、やっぱり楽しくて嬉しいことだったよと伝えたい。
たとえ、世の中は荒んでいても・・・である。
それをなんとかしたいなって思って、行動できることを考えられるのも大人として社会を知っているからである。

今、子供で、自分のやりたいことがあって、本当に自由にそれをやりたいなら、今やるべきことをやって、やれることをやって、それを手に入れ、やりぬく力をつけることだ。
それは子供の持っている「育つ」という権利だろうと思う。

子供の時には翼があった・・・なんていうけど、そんなことない。
大人だって翼をもっている。使い方を忘れてるだけで。
本当の大人は翼を使える。自分の脚で大地に立つ力を持ち、
自分勝手ではない自由を知っている。
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# by yui-aoyama | 2007-01-30 01:05 | 人・自然

着物というもの

昨日、三軒茶屋のうどん屋でのこと。

レジでお会計をする時に、うどんを運んでくれた女の子が応対してくれたのだが、
私が着ていた着物をみて、素敵ですね、ご自分のですか?と言ってくれた。
深緑色の、少し変わった普段使いの模様の縮緬の着物は、
家の隣の方から、年末前にいただいたばかりで、せっかくだから正月にでもと、
自前で持っていた、白菜柄の、これも縮緬のやわらかな帯を合わせて着てみたのだった。

その女の子は、9日に成人式で着物を着るのだという。
締め付けられるので…と、着物は好きなのにかわいそうな話だった。
まあ・・・ね、成人式の振り袖は、成人になったお披露目なわけでさ、
それで何をするっていうものではないから、しょうがないんだって。。。

ホントはね、着物って、すっごく楽なんだよ。食べるのも、走ることだってできるんだから。
と、帯の上を空けてみせる。野球ボールの一個くらい、平気で入るくらいにゆとりができる。
着物好きなら…北沢とかね、古着屋さんでみつくろえば、一万円くらいで一揃えできたりするんだよ、と話す。へえ~っと言った女の子の目が輝いていた。
着るのも、慣れたら二十分もあれば着れるし、自分で着るから、苦しくなったりなんてしない。

着物は子供の時から好きだった。
自分で着られたらいいな~と思っていた。
お正月に着せてもらった、ウールのアンサンブルの着物が大好きだった。
成人式の時に着た、黒の古典柄の振り袖は、袖を落とさずに、
今でも大切にとってある。

20代の頃に、着付けを習った。そんなに大変ではないな…と思った。
母からお下がりをもらって、時折着てみた。夏の浴衣を母が作ってくれた。
夏には浴衣を着るようになった。
演劇で、和ものをやるようになった。
本式の着物姿は、ほとんど出てこないものの、和風な衣裳を創るようになった。
自分で仕立てることもやってみた。時間とお金があれば創りたい。。。
30過ぎてから、母のお下がりの着物等をごっそりともらった。
40になったら、毎日着物で仕事をしよう・・・と考えた。
それは、現実的ではなかったが、このところ、機会があって着ることがある。

どこかのグラビアや映画に出てくる女優さんのような、美しい着物姿は期待しない。
高島礼子さんなどは、ホントに着物が身につく方で、うらやましいけれど。

私は着物を着ると、なんだか嬉しくなってしまうのだ。
なんだかホッとするのである。ゆったりした気持を着物が運んできてくれるような気もする。
それで、そこいらを歩いて回って楽しむ。
そんな私を見かけた誰かが、あの人でも着ているのだから…私も…、
とでも思ってもらえたらいいな~と思う。
ホントに、私でも着ることができるものなんだもん。

なにしろ、昭和のある時期までは、多くの女の人が、毎日着物だったのだから。
それで、家事をこなし、仕事をし、映画にでかけ、デートもショッピングもした。
着物がそんなに窮屈なわけがない。
せっかくの世界に誇れる装束なのだから、着ないなんてもったいない。
夏の浴衣があるだけで、夏が少し豊かになる。
お正月のご挨拶や、初詣が、ちょっと特別になる。
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# by yui-aoyama | 2007-01-08 01:09 | 衣裳

命の日

昨日は、父の命日である。
命をなくした日を、なぜ命日というのだろう。
この世に生まれたときに与えられた命を全うし、肉体を離れる=使い切った命を返還するから? 
使命を果たすということは、命を使い切るということなのか。
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# by yui-aoyama | 2007-01-06 12:35 | 人・自然

民話朗読365日完了

平成18年のお正月から始めた朗読のポッドキャストが、
去年の大晦日で、一応の完結となった。 365日分である。
途中、旅行に行ったりして、インターネット環境や録音環境にない時には、
事前に不在日数分のデータをアップロードしていたけれど。

お正月の二日間、お休みをした。

始めた時に比べたら、ずいぶんかまなくなったし、
声のコントロールもマシになった。

今年は、なにがなんでも・・・ではなく、
本当に読みたいもの、
心にとまったもの、
を心がけたいと思う。

途中、いくつか、民話ではないものも載せた。
そういう、様々なお話や詩などもやりたいし、
声を音の一つとしてとらえたものもやってみたい。

まったくの声だけの演劇(ドラマ)も、惹かれるものがある。
琵琶法師のようなものや、
吟遊詩人のような語り、
それらがどのように成り立っているのかも興味がある。

自然に・・・というか、自然のように届けるのは、
無理かなぁ・・・、イメージな話すぎるけど。。。
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# by yui-aoyama | 2007-01-05 01:20 | 朗読

明治神宮へ詣でた

いつものとおり、正月二日に、友人と二人でお参りした。
帰り道、渋谷まで歩いた。
公園通りを、なつかしがって歩いた。
パルコ。昔よく行った、ライブハウス。
なくなったジャンジャンの後のカフェ。
ガラッと様相の変わったビル街とお店。
途中、いくつかのブティックをひやかして通る。
ひやかし…ではあるが、ちゃんとそれなりな目的もある。
街の中は、衣裳のヒントの宝庫だからだ。
色遣い、形、素材、縫製の仕方、光の使い方等々。
もちろん、そこを訪れる、個性あふれるお客様も。

渋谷から東横線特急に乗る頃には、異様に疲れていて、眠ってしまいそうだった。

横浜の自宅で友達と呑んで、お正月を祝った。
…つくづく、お酒が飲めなくなった。
(友人は、今はずいぶん飲めるんだね…と言っていたが、そんなことはない)
夜中、明治の山茶を飲みながら、緊張がほどけていくのを感じている。。。
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# by yui-aoyama | 2007-01-03 00:59 | 徒然

年始

あけまして、おめでとうございます。

今年は、すでに夏の公演用に脚本書き始めています。。。
あがるかどうかは、わかりません。。。

日頃脚本を読んでもらっている人(先生)から
年賀状をいただいた。
はやいところ、自分の本当に書きたいものをみつけなさいとあった。
なんだか、嬉しかった。。。
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# by yui-aoyama | 2007-01-02 01:25 | 徒然

年末

来年の夏にやる演目を脚本にする。

小学生の頃に、世田谷区民会館で観た演劇。

脚本にしようかと思い始めて、
改めて本を読み返し、お隣の韓国の童話であると知った。
アジアの割と近い地域のむかしのお話くらいの認識でいた。
昨今の世の中を見ていると、童話すら読み返して複雑な気持になる。
とはいえ、私が心を動かしたのは、このお話の劇だったことは間違いない。

そんなわけで、描きかけています。。。
書き上がるのかなぁ・・・とやや不安になる年の瀬ですが。(爆)
採用されれば、来年の夏、お目にかけることになります。
その際は、是非、おいで下さい。
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# by yui-aoyama | 2006-12-23 11:22 | 徒然

もひとつできた?!

なにやら、今朝方、クロスロードアクターズクラブの主宰からのメールをもらった。
新規でブログなオフィシャルサイトを立ち上げたというので、覗いてきた。
といったわけで、トラックバックである。

 ついでに、リンクもしておこう。。。意味ないか・・・。

時に、秋にやった朗読以降、やや、やる気になっているメンバーの皆様。
継続は力です。
いいかげんなことしか通常いいませんが、
これはホントです。
ただ、ひとついえるのは、継続するべきことでなければ、当てはまりません?!
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# by yui-aoyama | 2006-12-09 11:14 | 朗読

自然(あるがまま)を探す

自然に・・・なんたって、そうそう日常、自然になど振る舞っていない。
どこかで緊張しているのが相場である。
朗読を毎日やっている中で、
ほんの少しの自分の状況の違いを思い知った。

朗読を始めた頃に、先生が私に言ったのは、
素の青山さんで・・・とか、本当の青山さんの声で・・・ということだった。
(舞台の)演劇をやっていると、たしかに素の声でいることは少ない。
だいたい、多くの舞台俳優たちは、体育会系な発声や肉体訓練をする。

私は、挫折組である。(マジに)

肉体的にも精神的にも、アノ(←このアノがわかる人は、演劇人です・・・ね、きっと)発声訓練や、肉体訓練で、身体を壊した口である。
丈夫にしておけなかったのがいけないのだと言われれば、それまでのことである。

けれど・・・と、その後も独り、脚本書いたり、衣裳を作ったりしながら演劇になんとはなく
関わってきて思うのは、あんな風にやらんでもいいじゃないか・・である。
もともと、演劇というのは、自分以外の誰かや、現実ではない世界の存在として、偽って生きるものである。何かの役をやるたびに、妙なセリフの癖や、身体の癖を身につけることになるのだから、マンマやったらキツイはずである。

たまたま、ひょっとしたはずみで、能楽に関わるようになり、
これまた、ひょっとしたはずみで、本物の謡を目の前で聴けるチャンスに恵まれた時に、
ん?と思った。
無駄な力がかかっていない。ここぞという時の力の使い方は見事だった。
(プロなんだから、こんなこと書くのは、失礼な気もするが)
謡はやっていないが、能管をやってみた。そこで気づいたのも、同様だった。
無駄な力みがあっては、どんなに力をこめても、空回りするのだ。
「力み」と「力」は、同じ字を使っても意味はまるで違う。

そんなこんなをいろいろと考え、自分はいかに楽に声を出すか、演じるか・・・からはじまり、
日常、仕事をするにも、力まず、力を発揮する・・・を命題にかかげている。
最近になって、少しわかりかけてきた時、いつも聞きにいっているライブの出演者が、
「アレクサンダー・テクニーク」というものを体験してきたと聞いた。
既知感があった。たぶん、遠い昔にそれか、それに似た何かをやったことがあるに違いない。
後で調べたら、やはり・・・である。まだ20代前半の頃に、欧米の演劇法を学んでいたことがある。その流れの中で、出合っているのだ。
なつかしいような感じで、今頃になって、おさらいのようなものをした。
そこで確認したことは、演劇にかかわらず、私が生きる上で身につけてきた、今も身につけようとしていることは、結局はつながっているということ。

どの側面から昇ろうと、富士の山は一つである。
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# by yui-aoyama | 2006-11-11 20:43 | 人・自然